歴史の概要

1992年(平成4年)当時の大分県日田郡(旧)の津江地域3村(中津江村・上津江村・前津江村)と地元JA、田丸屋本店(静岡)が共同出資し、第三セクター方式として誕生した会社です。中山間地域における農業所得向上と雇用の創出により、地域経済の活性化と地元農産物の高付加価値化を目的に特産品のワサビ、柚子を中心とする加工・販売を行っております。近年では、自治体の広域合併に伴い、日田市の特産品である和梨も主な加工品となっている。また、地元中山間地域の特産物の掘り起こしを行い、現在は山椒などの加工品開発にも取り組んでいる。

詳細

昭和54年、大分県は当時の平松知事の提唱で「一村一品運動」が始まりました。このような中、津江地域では、林業の衰退する中、林地を活用した「わさび」を一村一品として取組むこととなり、当時の農業改良普及所が中心的な役割を果たす中、行政と農協が一体となり「津江地域特産開発推進協議会」を設立し推進を計ってまいりました。

「わさび」約100tの生産地ができ、契約先の加工メーカーに送ることが10年ほど続きましたが、青果での出荷で品質が悪くなることと、また外国からの「わさび」の輸入も始まり、単価の下落が続き生産者の意欲も低下してまいりました。このため、産地としての存続も危ぶまれる状況となってきたわけです。

 こうした中、産地を守り地域農林業を守っていくために何が必要かということになり、独自の流通体制を築くことが検討されました。

そして、加工による「わさび」の高付加価値化とブランド化、そして雇用を目的に地場産業を創出する会社を持ち、運営することを「地域の政策」として取組むことになりました。

このようにして誕生したのが、第三セクター方式の農産加工流通を行う「株式会社つえエーピー」です。当時、当然のこととして議会や農協でも物議をかもし、一時は否決されるという経過もありましたが、地域農業委員会や県の支援もいただき設立に至りました。

 経営理念は「わが社は、地域の特産品の加工と、お客様に「安全な商品」をお届けする仕事を通じて地域に貢献し、社員の幸福と会社の発展・繁栄を期する」としております。

 設立時、5名の素人集団で事業に取組み、加工や流通開拓と大変な事業ではございました。当時を振り返ると、地域の救世主として、もてはやされた第三セクターがことごとく失敗し、当然弊社も1つ間違えば同じ運命が待っていましたが、運よく3年目より黒字を少しですが出すことができ、現在に至っております。そして現在では、わさび・ゆず・なし・こんにゃくの加工に取組み、約30名の雇用ができる会社となりました。

 特に「柚子」については、1農家から「なったままで何かもったいないぞ」という声があがり加工に取組み、2~3年は加工や流通について県の加工指導センター(当時)や大分県商工労働部などのご指導をいただき奔走いたしました。その結果、近年の柚子ブームにより、柚子商品の売り上げが伸び、昭和30年代に減反政策で植えられていた「柚子」もようやく日の目を見ることができました。

 特に昔から地域にあった「ゆずごしょう」が一気に伸び、また寒い時期や風を引くと飲ませてもらっていた「ゆずとハチミツをお湯で割った飲み物」を「ゆずはちみつ」として商品化し、世界の食品コンクール「モンドセレクション」に出品し、「最高金賞」を連続していただく事が出来ました。

 当時、この商品ができた頃2002年サッカーワールドカップ「カメルーン」選手のキャンプ時期と重なり、キャンプ場に試飲を用意し、エムボマ選手や記者クラブの方々にたくさん飲んでいただき好評を得ました。そして、全国的に「中津江村」と「坂本村長」が有名になり、百貨店の催事などで、「中津江村」と書いているだけで、お客様が寄って来ていただけるようになりました。それ以前は、大分県一村一品の話から「中津江村」までの説明に声をからし、やっと商品の説明にこぎつけ、1品売るのに大変苦労しておりました。特産の「わさび」と言っても「それは静岡県のどこね」と言われる有り様でした。

 こうした中、柚子の原料も量的に不足していたため、大分県や日田市を挙げて「柚子の里づくり」に取組んでいただき事業のバックアップもしていただきました。  弊社のキャッチフレーズ「天然倉庫」ですが、太陽と緑と山・川をデザインして当時の3つの村を表し、自然に囲まれた中で、津江村スタンダードの加工品を産出することで地域を元気にする活動を行っております。